コラム

 公開日: 2011-08-30  最終更新日: 2014-05-23

建築家が見た、その日の阪神大震災

【経験したのことのない揺れ】
 平成7年1月17午前5時46分 奈良にある自宅のコタツの中で、うたた寝をしていた私は夢と現実の間で横揺れを感じていた。
地震だな…長いな…大きいぞ!…意識がだんだんハッキリしてくる。二階で子供が泣いている。金魚鉢の水がこぼれた。食器棚の茶碗がガタガタなっている。外はまだ真っ暗だ。
40秒程続いた揺れがおさまって、慌ててテレビのスイッチを入れる。画面が写らないが音声だけで地震の情報を流し始めた。京都震度5、奈良震度4、大阪震度4…
 京都の親戚に電話した。大変な揺れだったが目立った被害は無いとのこと。次に滋賀にいた姉に電話したが、こちらも無事だった。ラジオをつけてみる。神戸に住むパーソナリティが自宅から実況中継していた。市内を見渡せば2~3本の煙が見える。近くの家が倒壊している。興奮を押さえ極めて冷静を装った言葉が流れてくるが、それとは逆に私の足がガタガタ鳴り出した。寒さのせいではない。



 東の空がしらみ出した時、NHKの神戸放送局の映像が写された。見たこともない凄まじい揺れ。仮眠していた人が飛び起きたが立っていられない様子。これは京都が震源じゃない神戸だ。滋賀の姉から電話がかかる。神戸の叔父の連絡がとれないとのこと。「会社へ行って用事を済ませたら神戸に行って様子を見てくる」と返事をして電話を切る。
 テレビは刻々と事態の深刻さを伝えてくる。鉄道全線不通。高速道路全線通行止め。ヘリコプターが神戸市内の様子を伝えてきた。阪神電車が脱線している。阪神高速神戸線が倒壊してバスが落ちかけている。神戸市内は黒い煙が何本も上がっている。これでは大阪の私の事務所も心配だ。7時半頃、車で家を出る。
 普段は香芝インターから西名阪自動車道を利用するのだが全線不通になっている。そんな時、国道25線を使って大阪に行くのが最短だが、こちらは大渋滞を起こしている。事務所の所員から、電車が不通で出社出来ない旨の連絡が携帯電話に入る。これでは通常の業務は何も出来ない。画面だけの災害情報だったのが急に身近な災いに思えてきた。平常に戻れるのはいつになるのか…
 大都市が壊滅する。終戦以来、国民の過半数がこれまで経験したことのない事態が発生している。
日ごろはハイカーしか通らないような、信貴山越えの山道を使い、大阪の柏原にでる。そこまで出ればカーナビを利用すればなんとか天王寺の事務所に辿り着ける。走った事の無い道を、行ったり戻ったりしながら事務所に着いたのは12時過ぎだった。

【事務所から神戸へ】
 事務所の外観は目立った損害は無い。唯一外壁の継ぎ目が動いたのだろう、シール材に塗ったペンキが稲妻状に裂けている。私は急いで4階に駆け上がり、事務所のドアを開けた。受付カウンターが倒れている、本棚が倒れている。パソコンのモニター2台が落ちかけて、ケーブルだけで辛うじて止まっている。熱帯魚水槽の中に蛍光灯が落ちて、可愛がっていたベタが感電死している。まずはどこから手をつけて良いやら途方に暮れた。
 よく見ていると倒れ方に規則性がある。南北が長辺方向である物は比較的不安定な置物も立っているが、東西が長辺方向である物はことごとく倒れている。
「鉄骨造は揺れるものです」と日頃お客さんに説明しているが、この揺れの酷さには自嘲せざるを得なかった。とにかく情報が欲しいので、打ち合わせ室のテレビをつける。評論家が丁度一年前にロサンゼルスで発生したノースリッジ地震を引き合いに出して高速道路の壊れ方を比較している。その醒めた評論が無性に苛立たしく腹が立ってきた、そんな事より被災者救出・支援が先だろう…
 急に神戸の叔父が心配になってきた。叔父は親戚で唯一外地での戦争体験がある。中国戦線を転々とし、終戦後ソ連に抑留されながらも生還した人である。神戸に生まれ育ち、そして復員してからも神戸に暮らし、神戸を愛し、誇りとしてきた頑固で気丈な人である。先年祖母が亡くなり、今は老夫婦二人で須磨区に暮らしている。はずだ。
 事務所の中が一段落したところで神戸に行く準備を始める。一般道路も規制が出始めたらしい。しかし、当時まだ普及していなかった携帯電話も、カーナビも一応持っていたので、知らない土地へ行く訳じゃなし、どうにでもなると頭から決めてかかっていた。阿倍野の近鉄百貨店で飲料水や食料、濡れティッシュをまとめ買いすると、様子を察した店員さんがこれも使って下さいとポリタンクとプラスチック容器を包んでくれた。
 天王寺を出発したのが午後3時過ぎ。浪速筋を北上し、浄正橋を左折して国道2号線に入った。そこで渋滞に捕まる。カーナビを使い裏道、脇道を探しながら淀川を越えたのが4時半頃。渋滞に捕まる度に不安が膨らむ。早く安否を確認したいが車は進まない。神崎川を越えたあたりから、木造の家屋に被害が目立ってきた。
 屋根瓦がずれ、建具が菱形になっている。商売柄、建物の水平、垂直は道具を使わなくても判るように訓練しているので、建物の微妙な歪みがやけに目につき、車酔いとも目眩とも形容し難い感覚に襲われた。歩道の肩石が曲がっている。電柱がことごとく傾いている。車がスピードを出すと激しく上下にバウンドする。
 ロサンゼルス地震の時、倒壊したフリーウェイの橋梁を見て「この地震が日本で起こっても、ここまでひどく崩れない」と知り合いに自慢げに話していた自分を恥ずかしく思う。今ロスと同じ、いやロス以上の崩れ方をした高速道路が目の前にある。渋滞を避けるため国道2号線と43号線を縫う様に走っていたので阪神電鉄を何度も横切ったが西宮市を抜けた当たりで阪神電鉄の橋梁が落ちていた。
 橋梁の一方はまだ橋脚の上にあり三角形に隙間が出来ている。車一台ならなんとか通れそうだ。ソロソロと車を進めて丁度真下に来た時、前を行く車が止まってしまった。対向車がいるらしい 。「おいおいこんな処で止まるなよ。今余震が来たらどうすんねん」ドラマだと計ったように余震が来て、主人公は絶体絶命のピンチになるのだろうが、現実はどうにか無事に通過することが出来た。日暮れが迫ってくる。明るい内に須磨に行きたいが、これから先何があるか判らない。無鉄砲に出て来た事を今更ながら後悔し始めていた。
 ロサンゼルス地震の時は、各地で暴動が起き、商店やスーパーの商品が略奪されたり、殺人や暴動を繰り返す無政府状態が続いた。神戸に近づくに従って渋滞が益々ひどくなる。2号線はもう殆ど機能していない。43号線は思ったより交通量は少なかったが、河川があるたびに、地面が陥没したのか、橋脚が隆起したのか、40cm程の段差が出来ていて渡れない。この先も寸断されているだろう。そして何よりも、頭上の阪神高速が今にも崩れてきそうに思える。コンクリート製の柱脚は殆ど橋桁の下当たりで破壊されている。ひどい柱脚は主筋が飛び出し、飴のようにねじ曲がっている。あれではとても橋梁を支えきれない。大きい余震がくれば倒壊するのは目に見えている。2号線も43号線も諦めもう一筋南側の酒蔵通りを進む事にした。
 ここも渋滞が酷いがここしかない。ここまで来ると心細さが手伝って他人と同じ行動をとりたくなる。もう辺りは真っ暗だ。車のライトだけが唯一の明かりである。そんな中をノロノロと走っていると対向車が泥を跳ね上げた。雨か?違う水滴はフロントガラスには付いていない。水道管が破裂しているのか?いや違うとっくに断水しているはずだ。それにこんなにドロドロしていないだろう。まるで杭工事に使うベントナイト液のようだ。液状化現象!? 学生時代に教科書でしか習った事のない現象を目の当たりに見ている。地下の砂質層が常水面下にある場合、地震等の振動でたちどころに液状化し急激に地耐力を喪失する現象だ。もし杭等で支持層に自重を伝達していない建物があったら、沈没船の様にズブズブと土中に沈み込んだに違いない。締まった砂は問題無いが緩い砂層は始末に悪い。土地を購入するときはボーリングデータを添付する時代が来るだろう。(後年、住宅保証制度が法制化された際に地盤調査が義務化されています)渋滞を抜け出したいが、もう脇道に入る事が出来ない。狭い道では塀が倒れ、建物が倒れどこで行き止まりになっているのか検討もつかない。通れそうな道を右に左に走っていると、また43号線に出てしまった。



 場所は深江浜付近だったと記憶している。だがいつもと風景が違って見える。100m程走って自分でもびっくりするほどの声を上げてしまった。目をこらしてじっと闇の中を見ていると高速道路が横倒しになっている。柱脚がことごとくなぎ倒されている。どうもこうも表現しようの無い眺めだった。普通に高速道路の下を走っているときは見慣れているけど、倒れたら高速道路の巨大なこと。
 戦争中、空母瑞鶴の最後を、目の前で見た人の話しを直接聞いたことがある。「航空母艦が転覆したら丁度こんな光景かな」なんて一人でつぶやいて、爽快感ともヤケクソとも言いようのない感情が込み上げてきた。
 後日、コンクリートの中から空き缶や、木切れが出てきて問題になったが、そんな話は枝葉の問題だ。建設当時の設計基準が甘く、法改正が何度も行われているのに、それを改善せずに放置した事こそ問題にされるべきだ。おそらく、危険性を指摘した研究者が何人もいただろう。しかし、この手の指摘は災害が発生してからでないと見直されないのだ。「だからあの時云っただろう!」と云っても遅いのである。本当に危機感を持っているのなら、災害が発生する前に声高に人々を啓蒙しなければならない。

【神戸の惨状】
 しばらく走っていると西の空が赤く染まっているのが見えてきた。三宮を過ぎて兵庫辺りまで来ると火災の炎が肉眼ではっきり見ることが出来た。今までに何度か火災現場を目撃したことが有るが、町単位での火災は初めての体験だ。依然として渋滞がひどい。道の両サイドの建物が燃えている。ボンネットに火の粉が雪の様に落ちてくる。誰かの車のガソリンに引火したら…。燃えている建物が崩れてきたら…咄嗟の出来事に対応出来るようにシートベルトを外した。火事の輻射熱で顔が暑い。冬にも関わらずエアコンを入れた。やっとの思いでJR長田付近まで来たが渋滞でいよいよ車が動かなくなった。
 近くにたまたま警官がいたのでこの先の様子を聞いた。消火作業に海水を使用しているため、消防ホースが43号線を横断していて、この先が道路封鎖されているとのこと。須磨に行くには火災の一番激しい処を抜けて、一旦北側に回り大きく迂回しながら、須磨に出る道を探せとのこと。ここまで来たら行くしかない。車を北に向けてノロノロと走り出した。JRの高架付近まで来ると今度は、自警団風の人が道路を封鎖している。先ほど、この先で走行中の車が引火して路上で炎上しているとのこと、この道を突き切るのは自殺行為だからやめろと言う。引き返して一旦東へ向かい、さらに大きく迂回しなければならない。渋滞を考えると、とても出来ない。仕方がないので、車を歩道に乗り上げ、通行車両や避難人の邪魔にならないよう注意して止め、歩いて須磨に行くことにした。
 しばらく火の海の中を歩き回っていると、母親から聞いた神戸大空襲の話しを色々と思い出した。
母が湊川神社の近くで空襲に合い、焼夷弾や機銃掃射に追っかけまわされながら、防空壕へ飛び込んだ話しや、三宮の高架の下で、焼夷弾によって焼かれた米俵で暖を取った話しや、摩耶山の高射砲がとても優秀で、探照灯でB29の胴体に照準を合わせ、弾が当たると胴体と主翼がバラバラになってヒラヒラ落ちるのがとても綺麗だったなんて話しを、何度も聞かせてくれた。そんな空襲の光景が、今夜の状況と重なって見える。母も50年前これと同じ景色を見たのだろうか…



 JR鷹取付近まで来ると街は焼き尽くされていて、原型をとどめている建物は殆ど無かった。炎はあちこちでチリチリと燃えていて、風が吹くと稲穂がそよぐように地面をなめてくる。須磨も燃えているのか気が焦った。若宮ランプを北上すれば叔父の家だ。この辺の橋脚もことごとく圧壊している。木造の叔父の家なんて原型が残っているとも思えない状況だが、付近を流れる数本の河川のおかげで類焼だけは免れている様子だ。依然として辺りは真っ暗で時々通る車のライトを頼りに歩いている。
 時間はもう10時を過ぎている。叔父の家まで数十メートルまで迫った時、建物のカタチになっていない固まりが目に入って来た。叔父の家の辺りだ。目から涙が溢れてきた「叔父貴、叔父貴、叔父貴」うわごとの様につぶやきながら駆け出していた。最後は半狂乱の状態になりながら家に近づくと、辛うじて叔父の家は建っていた。
 北隣の鉄骨3階建てのアパートが道路の方へ倒壊していた。叔父の家は数年前に防音対策工事をしており、新しい外壁が古い外壁を覆うように、二重の壁になっていた。結果的に新しい壁が古い壁を包む様にしていた為倒壊を免れたのだ。
まわり3方の家は全て倒壊している。叔父の家に飛び込み、声を限りに叫んだ「叔父貴!!」返事が無い。
しかし生存していると直感した。階段が落ち、壁が崩れ落ちているが、それを片づけた形跡があった。こんな状況で家の人以外、誰が家を片づけるだろう、これは生きている。学校か区役所かどこかに避難していると考え、坂の下にある小学校へ向かう。小学校も真っ暗闇だったが人でごったがえしている。校庭は臨時駐車場の様になっていて車の中で一夜を明かす人もいるようだ。叔父の名前を叫びながら教室を廻ったが返事が帰ってこない。よし区役所だ。学校を飛び出した時、携帯電話が鳴った。
 声の主は妻だが、電波状態が非常に悪く、何を言っているのか全然判らない。携帯電話の中継所も被災しているのだろう。電気も無いはずだからここで通話出来たのが奇跡に近い。受話器の向こうで何か大声で叫んでいる。途中で途切れてしまったが、数分後また掛かってきた。今度は前より鮮明に聞こえる。叔父の消息が判ったとのこと。西神ニュータウンにいる従兄弟の家に、夫婦そろって避難していたのだ。電話が不通で、どうしても連絡がとれず、公衆電話を数時間並んでやっと知らせて来たとのこと。それを聞いて急に体中の力が抜けていった。さあこれからどうやって奈良に帰ろう。この時ここに来た事を一番後悔した。救援物資を叔父の家の玄関に置いて、とぼとぼと来た道を戻り始めた。

【帰路につく】
 戦国時代の小説を読んでいると、攻略戦より撤退戦の方が遥かに難しいのが判る。続いている余震や火事、暴動等人的災害、それより一番現実的な渋滞問題・・・考え出したら気の滅入ること滅入ること。
小一時間程かけて、ようやく車までたどり着くと、真横の家が燃えていた。もう10分でも到着するのが遅れていたら車も燃えていただろう。ドアの取手が熱くて触れなかった。
 来た道をまたノロノロと帰り始めた。路面が波打っていてとてもスピードを出せない。
反対行きの交通量は、思ったより少なかったので、その分辺りの景色が良く見えた。公園や空き地は、人で埋まっている。テントも張ってある。倒壊を免れた家の人たちも、いつ襲うかわからない余震の恐怖で、家に入れないのだろう。みんな今日は何処で寝るのだろう。食事は、トイレは、風呂はどうするのだろう。これから昨日までの神戸に戻るのに何年かかるのだろう。そんな事を考えていると急にお腹が減ってきた。昼過ぎに大阪を出てから何も食べていない。トイレにも行っていない。そんな事考える暇も無いほど頭が混乱し、興奮していた。帰る前に腹ごしらえをしたいけど開いている店なんて何処にもない。
 JR住吉を過ぎた辺りにマンションがあり、1階にコンビニがあった。ところが 1階の柱が圧壊し普通の半分ぐらいの高さになっている。 もちろん真っ暗で人影も見えない。しかし、 出入り口も壊れており、その気にさえなれば中の商品は簡単に取れる。でも略奪があった痕跡がない。ロスの地震の時はコンビニエンス強盗が横行したのと比べれば奇跡にも思えた。この日はもう一つ感動する体験をした。
 43号線を大阪に向けて芦屋付近を走っている時だった。夜中に国道を一人で走っていて暴走族に遭遇し、言いようのない恐怖を覚えた人も多くいるだろう。鉄パイプや金属バットでフロントガラスを粉々にされた話しも少なからず聞いている。真冬だし、こんな災害があった直後だから暴走族もないだろう・・・とは思いつつも付近に車がいない夜中は不気味だ。いつ余震で崩れるか判らない高速道路の下をノロノロとスピードも出せず走っていると、地震で隆起した橋に出くわした。50センチ程隆起していて、道路がそこで分断されている。とても車では通れない。退き返して迂回路を探そうとしたとき、道の隅に十数名の人影が見えた。
 いかにも暴走族という風体。茶髪あり剃り込みあり皮ジャンあり特攻服ありといった集団だった。変に関わってもつまらない。車を反転しようとした時、後ろにも暴走族に回りこまれ完全に包囲されてしまった。金目の物はあまり持っていない。ただでは済まないな、と思ったとき先程とは別の感情で足が震え出した。リーダー風の男が寄って来る。見た目より若そうだ。こちらが怯えているのを悟られまいと、こちらから声をかけた。
「こっ、この辺に迂回路無いかなあ」
「迂回路?そんなもんない」
「あ。そう・・・・」
いかん会話が続かない。
奇妙な間が二人の間に流れた。「ちょっとまっとけ!」その男が仲間の方へ歩いて行った。なにやら指図している。やおら数人の男がその辺から石やらコンクリートの塊を持ってきた。「待ってくれ!この車まだローンが残っている!」と云い掛けたとき、ちょっと様子が変わってきた。
 段差の出来た橋桁にコンクリートの塊を置いて即席のスロープを作り出した。概ね出来あがったところでリーダーが手招きする。右オーライ左オーライと言う風に細かく気を使ってくれる。言われるままに車を動かして橋を渡った。向こう側に出来ている下りの段差にもスロープを作ってくれて最後に 「大阪へ行くんか。気いつけや」と手を振って見送ってくれた。開放感と親切心が身に沁みて、不覚にも落涙した。
 淀川を渡ったのが午前2時過ぎ。奈良の我家へたどり着いたのは午前4時過ぎだった。翌朝近所の人が話す声で目が覚めた。私の車を取り囲んで何やら話しをしている。車を見てみると一面に灰をかぶり濃紺のボデーが、まさしく灰色になっており右側の前輪・後輪ともパンクしていた。神戸では何の違和感も無かった泥だらけの車が、地震の被害が皆無だった奈良では異常な程、場違いな感じで、一晩中私を守り続けてくれた車が愛しく思えた。

【あとがき】
 この日の体験で、私は大変な目に会いましたが、奈良に帰れば厳然として我が家が存在し、温かな家庭が私を待っていてくれるのです。しかし神戸では今も全壊した家のローンに苦しみ、肉親を無くした苦痛と必死で戦っていらっしゃる人々が数多くいるのです。私にも何か出来る事は無いかと、危険度判定士・耐震診断士として何度も震災現場に入りましたが、その度に被災者の筆舌に尽くし難い深い悲しみに直面する事になりました。今まで耐震に関する知識を持ち合わせながら、何もせずにいた自分に対し自戒の念を込め、インターネットではハンドルネームを諸井浩三(脆い構造)にしています。
耐震診断・リフォームをご検討されている方は、お気軽にご相談下さい。
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